AngelLamp

140文字に収まらぬものをここに

創作の原価

写真機材のスペックが上がり、

同人誌が身近になり、

ハンドメイドの材料が手に入りやすくなり、

無料で漫画や音楽をダウンロード出来る違法ダウンロードサイトが存在し、

 

自身の創作を気軽に披露出来て、

誰かの創作を手軽に手に入れられる時代。

 

同時に、知的財産へのハードルが下がり、

「誰にでも出来る」

と思われがちな時代。

 

「誰でもプロ並みの写真が撮れます」という謳い文句が普通に使われ、写真撮影にお金を取るの?と言われたり

同人誌の1500円を「ぼったくり」と言ったり

ハンドメイドに「材料を組み合わせているだけ、支払うのは原価だけでいい」と言う人が居たり

漫画や音楽やアプリは無料なのが当たり前、お金を払うのはおかしい、と言う人が居たり。

 

人が生きていくにはお金が必要である。

それは、「ぼったくり」「無料が当たり前」と言っている人たちだって同じこと。

 

なのに創作はひたすら消費され、「原価だけでいい」と言われ、ぼったくりと言われる。

恐らく創作だけではなくそう言われがちな職業やジャンルもあるだろうし、

エンジニアなども原価について理解されにくい職業だと思う。

 

 

では、創作の「原価」とは何か?

 

 

日本人は「形なき、物理的ではないもの」については特に、「原価」について考えないらしい。

その「形なきもの」はつくり手の想い、考え、心、技術、時間、そういったものだ。

 


好きな逸話がある。

 

ピカソのファンの女性が、ピカソに絵を描いてもらった。

ピカソはその絵を30秒で描き上げた。

「この絵の価値は100万ドルです」

女性はたった30秒で描いたのに、と言う。

ピカソは言った。

「30年と30秒です」

 


そう、「原価」には

その作品をつくり上げるために必要な「技術」を鍛錬した「時間」、

つくるにあたり「考え」たこと、込めた「」と「想い

そのすべてが含まれている。

 

思い通りの表現をするためには、「技術」は必需だ。

その「技術」を磨くのに必要なのは、「時間」と、それを継続していくのに必要な「お金」。


創作者の原価には「その技術を鍛錬する時間とお金」が原価として加算される。

 

創作者は一種の「職人」なのだ。

その技術は決して安いものではない。

時給換算だとしても結構な額になるだろう。

 

簡単に出来ると思うかも知れない。

形がないじゃないと思うかも知れない。

 

そんなことがあるだろうか?

 

現代日本人は、目には見えないものを蔑ろにしがちだ。

情報という形なきもの、その恩恵を受けながら、その価値を評価しない。

 

私は写真家の他に舞台スタッフとしても活動しているが、

その仕事「制作」という部署も、「誰でも出来る雑用」と思われがちなのだが、

問題なく仕事を進めるために時間をかけて技術を磨き、

経験という何事にも代えがたい財産を築いてきた。

 

でも、それでも「雑用」と思われる。「誰にでも出来る」と思われる。

その陰で積み重ねて来たものを、人は評価しない。

 

写真も同じだった。

私が今、ちゃんと自分で「駆け出しのプロ」と名乗れるようになるまで、

ここに来るまで3年かかっている。

その3年間の間にした鍛錬を、

心なき言葉をかける人は知らない。

でもその3年間があったからこそ今撮れる写真が存在するので、

それはたとえ無形でも、「財産」であり「原価」だ。

技術は無料で提供するべきものではない。

 

完全にただの趣味、採算度外視という方向性ならば、例外だと思う。

だとしても創作にかけた時間は絶対に無料なはずはない。

たとえば欲しいものを我慢して。たとえば睡眠時間を削って。

その時間の間に手に入れられたであろう別のもの、それもすべて「原価」に含まれると思う。

 

創作にかけたすべての時間は、正当に評価され報われるべきだ。


クリエイターを目指す方、

クリエイターである方、

すべての創作者の方へ。

 

自身の持つ無形の財産を、たとえ理解なき人に否定されたとしても

あなたの歩んで来た道、選んだものを後悔したり責めてはいけないし

あなたのやることは他の誰にも出来ない「あなたにしか出来ないこと」なのだから、

 

あなたの価値はあなた自身で決めていい。

 

怖がって自身を安売りなんてしなくていい。

正当な評価で正当な価格であなたのつくったものを選んでくれる人を、

大切にしよう。

 

心なき声に

負けないで。